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 勇者敗北の報せは瞬く間に全土に轟いた。
 一日の内に魔界を越え、戦場を渡り、人界の王へ衝撃をもたらすときには、とうに天界の神も知っていた。
 魔王は勇者と、確認できるだけの仲間の遺体を人界の一国の王であり汎人類連合を率いる盟主でもあるクロウバー=グリンブランドへ送った。それと共に魔界全土に喪を発し、前線のゲート砦で耐えてきた兵達にも防備のみを命じ攻勢に転じることは許さないとした。
 幾多もの魔王の兵と共に、勇者が没してから三日が経っていた。

「宜しかったのですか、これで」

 相変わらずの、しやがれた声だ。玉座に深く腰掛けながら、魔王はこれに応えた。
 すでに血は洗われ、遺体は運ばれている。小さな家なら二つ三つすっぽり入ってしまうような広間に立っているのは、枯れ木のような侍従長と天井を支える抱えるほどに太い何本もの柱だけであった。

「良い。これで人間達に自棄になられても困る。我々の敵は隣人の彼等ではないのだ」

 侍従長が頭を垂れる。侍従というより、戦争が始まってからは副官のような役割を果たし始めている男だった。魔王も指揮の殆どを侍従長を通して伝えている。

「喪は六日続けよ。それまでにクロウバーが動けばそれに応じる。動かなければ、攻勢を開始する」 

「今ならば、容易にナグリド要塞まで辿り着けると思います」

「辿り着くのはそうでも、あの要塞は容易に落ちん。同じことならば、ここは彼等の動きを見たい。クロウバーも、ここで真価を問われることになろう。ただの父親か、それとも王なのか」

 魔王は言いながら、自分はどうなのだろうと問いかけた。クロウバーと同じく、娘を、メアリを殺されたら。しかもそれが、敵国の王なのだと知らされたら。その時、全てが仕組まれた物だと見破る眼が果たして自分に残されているのか。

「……父親ならばクロウバーを殺すまで戦争は終わらんだろう。王ならば、止まることもあるかも知れん。勇者は死んだのだ」

 侍従長が再び頭を垂れる。その影に、そっと近づいていく者があった。侍従長が影に頷く。影が頭を下げた気配があり、そのまま音もなく姿を消した。侍従長の侍従を務めているような男だ。何時も影を移動し、はっきりと姿を見たことは魔王にもない。

「二つ、ご報告が御座います。勇者の仲間達ですが、どうやら全部で七人いたようなのです」

「たしか、見付かった遺体は勇者を含めて六人分だったな」

「はい」

「急がせろ、隊を特別に編成しても構わん。生きているにせよ死んでいるにせよ、これ以上余計な希望を彼等に持たせる必要はない」

「畏まりました。至急手配いたします」

 魔王は頷いた。

「もう一つの方は?」

「槍の拵えが終わったとの事です」

「よかろう、手隙の兵を丘へ呼べ。それから槍をここに。急げよ。もう陽は傾いている」

 畏まりましたと返答する侍従長を尻目に魔王は眼を閉じた。疲れが溜まっていた。当初は三ヶ月を予定とした戦が、もう一年を過ぎようとしている。しかし、ここで立ち止まってはいられないのだ。

 次に深く眼を閉じたとき、魔王は王都を見下ろす位置にある風見の丘の祭壇の上に立っていた。手には、勇者を討った槍が血の代わりに夕日を照らし赤く輝いている。ゆっくりと眼を開き、死者に向け垂れていた頭を上げる。
 城の城壁もかくやという巨大な石碑が夕日を反射して鈍く輝いている。歴史の中で千年以上にも渡ってここに立ち続けてきた墓標である。その下には、初代魔王の体が朽ちることなく眠っているという。その僅か後方、今はちょうど西日を受けて影となるところに一回り小さい墓標が建てられている。死後も忠誠を誓い守護を果たす事が許された騎士の墓である。その者の性根を晒す風が吹くと謂われる伝説のある丘に、彼等の骨は埋められている。
 振り返り、丘を黒く染める兵達をじっと眺めると、魔王は言った。頭を失い、手隙となった三百人弱の近衛騎士達。どこにも閉じた眼を開く者も垂れた頭を上げる者もいなかった。ただ僅かに、嗚咽のみが耳に届くばかりで、そしてその音もすぐに風で彼等の元へ運ばれていく。

「騎士達よ! 新たに七人の英霊が我が祖の元へ旅立った。偉大なる先人達に劣ることなく、彼等はその役目を果たし続けるだろう。だが、彼等はもはや我が警護を果たすことは敵わぬ。それだけが無念であり、遺憾である。しかし、彼等はまさに使命を全うした。故に、我は彼等に代わり、彼等の役目を諸君に譲る」

 そこで言葉を句切り、魔王は一人の男の名を呼んだ。その男は十段にもなる隊列の最前列に位置し、赤茶げた髪と面影のある顎髭を持つ若者だった。若者は隊列から一歩を踏み出し、そしてそこから魔王を見上げた。良い眼だ、と魔王は思った。美しいとさえ、魔王は思った。そこには憤怒も、絶望も後悔もなく、澄んでいた。そこに宿っているものまで、魔王は邪推したりはしなかった。
 魔王は祭壇に立つ自分の足下までその若者を呼んだ。通例にないことである。若者は僅かに戸惑いの色を浮かべ、しかし黙って命令に従った。
 魔王は持っている槍を天高く掲げ、見よと叫んだ。槍にはなんの装飾も特徴もない。しかし、無骨で真っ直ぐな姿が若者の胸を打った。

「この槍は死してなお我が身を守り、そして我が手にて仇者に止めを討ったものである。この槍を我はこの槍の主であった我が友アウルの息子、ドゥーンに授ける。更なる精進に励み、父に代わり、父に劣らぬ武勇を示せ」

 魔王はじっとドゥーンの顔を見続けた。緊張に固まった顔が、徐々に紅潮し、興奮し、若者らしく溌剌と輝いていく様が見える。

「誓って。父アウルから受け継いだこの血に誓って。果たします」

 魔王は頷き、槍を授けた。ドゥーンは跪いたままそれを掲げるように受け取り、そして槍を強く握ると改めて口を開いた。

「母より生まれ、父に守られし大地が為に」

 大地が、兵達が復唱する。

「「母より生まれ、父に守られし大地が為に」」

 ドゥーンがさらに声を張り上げる。誇らしく、誰に恥じることもなく、高らかに。父の形見である槍を掲げて。

「我らが王のために」

「「我らが王のために」」

 復唱が天地を震わす。魔王はそれには加わらず、彼等の一人一人を見て、それから遠く地平線に眼を向けた。夕日が沈んでいく。それを美しいとは魔王は思わなかった。
 ただ魔王は、先ほどのドゥーンの言葉と勇者が末期に語った言葉を思い出していた。誓い。果たせぬ者と、新たに立てる者。
 どこからか、冷えた風が丘を吹き抜けていく。魔王は、寒風に晒される肌にメアリのぬくもりを思い出す。そしてそれよりさらに昔の、あの丘のことを思い出す。

「皆は、笑うだろうか。誓いを守でもなく、敗れるでもなく、捨てた私を」

 風見の丘に、風が吹く。その者の、全てをさらけ出すという風が。
 それでも魔王はおもむろに、その全てを胸へと締まう。
 風は止まない。
 

 三日後、クロウバー=グリンブランド率いる汎人類連合は魔王軍に対し総攻撃を開始した。





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