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 魔王は眼を開いた。そうして、人間の勇者とかいう若造を強く見詰めた。茶髪をぼさぼさに伸ばし、血に汚れた白銀の鎧に身を包む、中肉中背の男だ。歳は、二十を越えて少しと言うところだろう。寿命が短い人族の中にあって充分に若い。
 勇者は動じることなく、強靱な意志を持った眼で魔王を睨み返してきた。鞘から放たれ、その右手に握られた聖剣からはまだ温かな血が滴り落ちている。

「人間よ、我を殺しに来たのか」

 魔王は言った。重く、全身から押し絞ったような声だった。
 勇者は初めて一歩退き、さらに力を籠めて魔王を見詰めた。剣先を魔王に突きつけ、勇者は言った。

「然り。魔王、覚悟」

 勇者の体に力が漲っていく。聖剣から神気が溢れ出し、それが勇者をさらに昇華させていく。哀れな、と魔王は呟いた。
 魔王はゆっくりと腰を上げた。黒髪に黒眼、銀の刺繍が施された黒衣を裏地のみ赤いマントで包み、右手の人差し指には無骨な紅玉の指輪を填めている。他には一切何も持たず、魔王は改めて広間を見渡した。
 荘厳な雰囲気に満ちていた玉座の間は死臭に満ち、僅かに残った七人の近衛の死体が赤く床を染めている。込み上げてくる物を胸に押し込め、魔王は言った。

「来い、小僧。一撃で終わらせてやる」

 勇者が雄叫びを上げる。それに対し、魔王は静かに階段を下った。一歩一歩、絨毯に足を埋めていく。降り立つと、すぐ足下に近衛騎士団長であったアウルの死体がある。赤茶げた虎髭を蓄え、鍛え上げられた体を分厚い鎧に包んだ勇士だった。左の首元から袈裟に斬られ、更に引いた刀で腹部を貫かれて絶命している。
 勇者の足が絨毯を蹴った。その足捌きは魔王の眼にも見えぬほど素早く、瞬く内に魔王に肉迫した。

「おおぉっ――――――!」

 勇者の渾身の突きを、魔王は立ったまま受けた。その突きは魔王が担ぎ上げたアウルの体を貫き、左腕を僅かに突き刺して止まっていた。
 勇者が驚愕しながら剣を引き抜こうとする。次の瞬間、魔王は右腕の手刀で勇者の心臓を貫いていた。

「そんな。神の鎧が、こんなにあっけなく」

「……これで、少しは眼が覚めたか」

 勇者が崩れ落ちていく。魔王は乱暴に腕を引き抜き、そっと左腕のアウルを床に横たえた。アウルの胸にポカリと大きな傷が増えている。それを見て魔王は僅かに眼を細め、胸を押さえた。
 如何なるみわざか、心臓を潰されても勇者にはまだ息があった。
 
「……俺達は、戦ってきた。俺しか残らなかったが、正面から、犠牲を払ってもここまで来た。部下を、仲間を盾にする悪漢など、敗れても。だが果たせぬ事が、誓いを」

 勇者の声が遠退いていく。魔王は黙ってアウルが握り続けた槍をそっと引き抜き、穂先を勇者の眉間へ合わせた。

「他に、何か言い残すことはあるか」

 勇者が魔王を睨み付ける。憎悪に包まれた、良い眼だと魔王は思った。少なくとも、これは純粋な彼自身の意志だ。

「……くたばれ」

 魔王は槍を両手で握り、一気に勇者を貫いた。ほぼ同時に伸ばされた勇者の右腕が虚空を滑り、倒れる。こぼれ落ちたナイフの音だけが、ほんの僅かだけ魔王に届いた。すまない、と言っているように聞こえた。

「分からぬだろうな、お前には」

 魔王は槍を握ったまま玉座へと戻り、肘掛けに据えられたベルを小さく鳴らした。
 すぐに僅かな物音と共に玉座の後ろの隠し通路に控えていた兵達と侍従長が顔を出した。みんながそれぞれ無表情で、僅かに三名だけが眼の端に涙と怒りを浮かべている。
 十一人の兵達は玉座と魔王を囲むように整列し、その中央で礼装姿の侍従長だけが深く頭を下げた。掌ほどの、つるりとした頭頂を覆うように紫色の髪が生えている。それ以外は、漆黒の礼装と顔の皺に全てを隠してしまったような男だ。

「よくぞ、つつがなく」

 しゃがれた、そして悲哀に満ちた声だと魔王は感じた。だから、なにも言わなかった。

「後は任せる。この槍は血を拭い、後で部屋まで持ってこい」

 畏まりましたと返答する侍従長に槍を手渡し、魔王は自室へと向かった。背後で侍従長や兵達が一斉に頭を垂れた気配があった。再び込み上げてきた物を、やはり胸に押し込め、魔王は無言で玉座の間を出た。
 自室の前で、メアリが待っていた。金色の髪を飾り立て、代わりに清楚なドレスに身を包み、小さな顔を青く染めて不安げに魔王の顔を見詰めている。
 魔王は、出来るだけ優しく微笑んでみせた。メアリが声を上げる。

「お父様」

「なんだい、メアリ」

 メアリが一度俯く。それから小さく首を振り、魔王へと駆け寄ってくる。魔王はそっとメアリを抱き留め、まだ魔王の腰ほどしかないメアリの頭を静かに何度も撫でた。メアリの頬からこぼれ落ちた涙が、魔王の着衣に染み付いた勇者の血を薄めていく。それを見て、魔王もまた深く息を吐いた。
 今まで胸に溜めてきた物が、優しく解放されていくようだ。そして、一つの言葉が魔王の胸から零れた。

「ヘレナ。我々は何時まで、こんな事を続けるのだろうな」




 






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