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 翌日、魔王は一本の大きな木の下で膝の上にメアリを抱いていた。
 金髪の髪を撫でる。メアリが擽ったそうに身を捩る。風が吹いて、草の香りと共にメアリの汗の匂いが鼻を掠め、ヘレナを思い出し、魔王は眼を閉じた。
 城の内壁にある草原(くさはら)の一箇所である。時には訓練などにも使われる一部を人払いして、先刻までメアリに剣の稽古を付けていた。傍らには、その時に使っていた模造刀が二本転がっている。
 木陰は涼しく、風は優しい。戦場の臭いはここまでは届かない。それでも、残された時は少ない。
 魔王は出来るだけ優しく声を掛けた。

「メアリ」

「なぁに、お父さま」

 腕の中でメアリが見上げてくる。一瞬躊躇い、木に背をもたれさせ、それから口を開いた。

「喪が破られた。私も、向こうへ行かねばならん。しばらくは会えなくなる」

「……そう」

 メアリが俯く。その様を見て、言い様のないものが魔王の胸を過ぎった。いっそ、こちらから終わらせてしまおうか。馬鹿なと思いつつ、そう考えてしまうのもまた真実だった。

「そうね、お父様は強いもの」

 再び顔を上げながら、メアリが言った。魔王は僅かに驚き、それから笑った。

「直ぐに帰ってくる。それまで、良い子に出来るかい」

「分からないわ」

「分からない?」

「そう。だからお父様は早く帰ってきて。そうじゃないと私、きっと悪い子になってしまうわ」

 そう言うと、メアリはバッと魔王の膝から飛び退くと、庭の中頃へと走り出た。それから振り返る。

「きっとよ」

 強がる声に反し泣きそうなメアリの顔を見て、魔王は大きく頷こうとして、それから固まった。メアリの背後に男が立っていた。小さなナイフをメアリに突きつけて。

「動くなっ!」

 叫ばれる前から、魔王は動けなかった。ナイフは既にメアリの首元にあり、場所は開けている。擦り切れた青いローブに身を包み、窶れた青白い顔に二つ禍々しい眼を光らせている。メアリは突然のことに凍りついたように固まっている。

「油断しましたね。勇者は死んだようですが、まだ私が残っている。私が魔王を殺す。私が英雄になる」

 男が喉を震わせながら言う。勇者の仲間、生き残っていたということか。声を聞いて、若い男だと魔王は思った。さらに甲高い。あまり肉体を鍛えてはいない。しかし、神の加護を纏っているようにも見えない。しかし、男は完全に気配を消していた。

「意外でしたよ、魔王に娘がいるだなんて。それもこんなにも溺愛しているなんてね。それでよくクレア王女を殺せたものだ。人間は所詮下等な種族ということですか。力のみを信条とするあなた方らしい。しかし我らには知恵がある」

 まくし立てながら、男がナイフをメアリの首に這わせていく。落ち着いて喋っているようで、その手は震えている。元々は冷静なタイプなのだろう。こういう男の方が、狂うと恐い。

「やっ」

 メアリが悲鳴を上げる。怒りは殺しているはずが、それだけで魔王は気が狂いそうになった。勇者を睨み付けたときよりも遥かに眼に力が籠もり、殺気が溢れる。

「おや、やる気ですか? その時はこの娘も道連れですよ」

 男と睨み合う。冷静になろうと頭を巡らすが、名案は溺れて沈んだまま掬い上げることが出来ない。

「……どうする気だ。そんなナイフで私は殺せんぞ」

「分かっていますよ、そんなことは。私はね、自害して欲しいんです。あなたにね」

 この男は正気と狂気の間を揺れている。魔王は男に視線を合わせたまま、周囲に気を配らせた。兵達は気付いているが、身動きが取れないようだ。

「……分かった」
 
 魔王は一度メアリを見る。勇者は心臓を撃ち抜かれても直ぐには死ななかった。自分も死なず、死んだフリをして、この男をメアリから離す。
 一瞬にして覚悟を決め、魔王は己の手を胸に当てた。兵達が下手に動けばやはり男はメアリを人質に取るだろう。それが分からぬ侍従長ではない。
 魔王は勢いを付けるために僅かに腕を逸らした。

「っ、ダメェ!」

 メアリが叫ぶ。そしてその背にバッと白いものが広がった。それがほんの束の間、男の視界を塞ぐ。

「なっ、!?」

 その時、魔王は動いていた。腕ごと叩き斬り、悲鳴を上げる前に蹴り倒し、僅か前までのナイフの持ち主へと突き出した。

「ただでは殺さぬ」

 憎悪に濡れた顔で男が魔王を見た。魔王は油断無く男を踏みつける。

「なぜだ、なぜ天使の子供が魔王と共にいる」

「死に行くものには、知る必要のないことだ」

 魔王がナイフに力を籠める。その時、足下に衝撃があった。

「ダメッ。お願い、やめて」

 メアリが魔王の足へしがみついている。その背には小さな羽が生えていた。魔王は左腕でそっとメアリを抱き上げ、しゃくり上げる顔を胸へと押し付けた。ダメだと、くぐもった声でメアリが叫ぶ。それを聞きながら、魔王は男に止めを刺した。ナイフは抜かない、飛び出した血がメアリを濡らすから。だから、血は僅かに魔王の腕を濡らした。

「メアリ、思い出したよ。お前の母さんが死んだときのことを。私は、許すことは出来ん。忘れることは出来ても、許すことは」

 魔王はメアリをそっと下ろした。メアリの黒い瞳が真っ直ぐに魔王を見詰めてくる。気後れに似たものをねじ伏せ、魔王はさらに言った。

「だからメアリ。お前だけは、良い子で待っていておくれ」 

 メアリは頷こうとしない。魔王はそっと目を伏せ、別れ際に渡そうと思っていた匂い袋をメアリに握らせた。

「それには私の魔力が籠められている。もし私がいない間に何かあったとき、それはきっとお前を救う」

 言って魔王はメアリに背を向けた。兵士が駆け寄ってくる。その時には侍従長はもう傍らにいた。

「申し訳御座いません。捜索のため、反って城内が手薄になっておりました」

「……急がせたのは私だ。咎めるつもりはない。それに、あの男は得体の知れない術を使って気配を消していた」

 侍従長が歩きながら頭を垂れる。つるりとした頭を魔王は睨み付けた。

「だがな、ウォレオン」

 頭を下げたまま侍従長の体が止まる。それに合わせて魔王も振り返った。

「二度はない」

 侍従長が身体を震わす。それも見ずに、魔王は歩き出した。



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