「夢幻」








「御本を、沢山読まれてゐるのね。」

 彼女は、私の部屋を一瞥しただけでそふ言つた。無論であつた。私の、三畳一間のこの小部屋には、本と、本を収めるための棚と、それから物書き用の文机一台しかなゐのだ。

「実は……。」

 私はどぎまぎした。まるで、告白をする初な学生のやふな有様であつた。それでも、私は言つた(でなければ、一体何のために四苦八苦して彼女を引つ張つてきたのか)。

「実は、本なぞを出したくて沢山読んでゐるのですが、中々ままなりません。」

「まあ。どれほど、お読みになつたの?」

 彼女は驚ひたことに、あまり驚ひてもない風であつた。ご存知なのだ、と私は直感した。全てご存知で、私をからかつておられるのだ。
それでも、不思議と悪い気はしなかつた。それでこそなのだ、とすら私は思つた。だからこそなのだ。

「さあ。そろそろ、五百にもなるかと思ゐますが、数えたことはありません。ままなりません。」

 嘘であつた。本当は、四百と五十三冊である。近頃では、偉ぶつてロシアの何とか言ふ文豪の、六百頁もある非常に分厚い本を読んだ。けれども、読んだだけでちつとも面白くなかつたし、何も分からなかつた。てんでお手上げであつた。
 しかしまつたく、こんな所でも、私の病気は現れる。彼女は、全てを承知しているやうに、ただ、

「まあ。」

 とだけ言つた。とても可愛らしかつた。私は一目惚れをした。いや、もふ一目所ではないのだけれど、私は改めて、彼女に一目惚れしたのだ。こんな事を言ふと、あなたは私を馬鹿にされるかもしれない。だがどうぞ、存分にするが良ひ。恋を知らぬとは、可哀相な人だ。私は、じつと貴方の眼を見て、その冷えた手を私の手で温めながらでさえ、そふ言へる。
 私は幸せであつた。私でないものは不幸せであるとさえ思えた。それは愚かでも何でもなく、今たつたこの時をおいてはそれこそが唯一無二の真実だと疑わなかつたし、事実そふであつた。とにかく、私はこの時までは確かに幸せであつた。

「では、さぞ沢山、書いてらしてゐるのでせうね。」
 
 私は、またどきりとした。けれどもこれは、これまでにない程のどきりであつた。しかもあろふことか、背中に汗の流れる類のどきりであつた。
 私は慌てて、けれど一音一音はつきりと、むしろ普段より低いぐらいの声で、

「無論ですとも。」

 と言つた。私は私の中で深く頭を抱えた(書く、書いているだと。一体何を!)。とはいえ、一部ではそれもまた真実であつた。私は読んだ本と同じか、あるいはそれ以上、事実書いてきたのである。事実書いてきたのであるが、そのどれも、たとえ三枚に満たない小編であつてすら、ただの一度たりとも、いわゆる物語には付き物な終わりといふ字を書いたことがなかつたのである。最後まで、きちんと終わらせたことがなかつたのである。それは、私にとつては一行も書かぬのと同じであつたし、事実同じ価値しか持たなかつた。むしろ、真つ白ひ原稿用紙を黒く染めてしまつているだけ、いつそう無価値ですらあつた。
 すると、彼女は微笑を浮かべ、今度はこふ言ふのである。その口が蠱惑に歪む前から私はその正体を知つていた。あぁ、私が悪かつた。出ていつてくれ。早く、この部屋から出て行つてくれ。もはや私には、その慟哭を叫ばずでいるだけで精一杯であつた。

「ではあの、もし不都合がなければ、あの、こんな事を言ふのはとても失礼であるのかも知れませんが、見せてもらつても宜しゐでせうか?」

 焦がれている人にこんな事を言われて、否と言える奴は男ではない。私はけれど、ウンともイイエとも言へず、ただ黙つて文机に収まつている引き出しからそれでも一番マシだと思へるものを抜き出して黙つて彼女に手渡した。その手は震えていた。とても酸つぱいものが這ひ上がつてきて、吹き出しそふになつた。
 けれど彼女はその一切に気付かぬ振りをして、

「では、失礼致します。」

 と、ニコリと笑つた。私は死にたくなつた。この世に生まれ落ちたことを深く後悔した。彼女の瞳が次の行に移るためぴくりと動く度、その白い陶磁のやふな手が頁を捲る度、私は己の何か大切なかけがへのないものを抉られてゆく様な気がして、私はついに立つていることすら出来なくなり、ぺたりとその場に座り込んだ。それにも気付かぬ風に、彼女は立つたまま私の作品とも呼べぬ習字の練習帳のやふなものの頁を捲り続けた。
 ああ、と私は呻いた。逃げ道を探して、私は外に面した一枚の窓を見つけた。これは僥倖、まさに思し召しである。私は彼女に気付かれぬやふそろりそろりと畳の上をコオロギか何か虫のやふに移動してついぞその縁に手をかけることに成功した。その時であつた。

「あの、何をなさつていらつしゃるの?」

 私はピヨコンと欧羅巴のブリキ人形のやふに立ち上がり、

「いやなに、今日は暑い。風でも入れたらどふかと思いましてね。あ、そふだ。早く座つてください。ああ何を案山子のやふに立つているのです。さあ、早くこの座布団に。早く。」

 と自分でも失礼なことを言ひながら(彼女を立たせたままにしたのは私である)部屋に唯一の座布団を差し出してしきりにそれを叩いてすら見せた。結局、窓は開かなかつた。今日は、むしろ肌寒いぐらいの様子であつた。だが、さすがは彼女である。

「えぇ、どうもありがとう。」

 と何食わぬ顔でそふ言ひ切ると、実に優雅な挙措で正座をして見せ、それに見惚れている私に気付ひてか気付くまいか、さつさと私の出した原稿用紙に視線を落とした。私はまう、一体どふすれば良ひか分からなかつた。途方に暮れてしまつたのである。
 私は、ああもうどふにでもなれと開き直り、それからをぼつと過ごした。ぐつたりと本棚の骨に寄りかかり、ただ彼女を視姦した。そふすることでしか、もはや自分を慰める術はなかつたのである。それに、これは何よりも彼女の名誉のために言つておくが、視姦といふ言葉を使ふのがあるいは不適切である程にそれは実に可愛いらしひ他愛のなゐものであつた。あるいは風景や、あるいは花にそふするやふに、私はただ見惚れていた。よふは、まう私には何もかも分からぬのだ。ただ、茎のやふにしなやかな彼女に椿の和服は実に似合つていた。
 彼女はゆつくりと私が手渡した全ての頁を読み切ると、全てを整えて丁寧に二度畳を叩いて高さまで揃え、あろふことかまた初めから読み始めてしまつた。私は流石にもふ勘弁ならぬ、これ以上は心臓が止まつてしまふと奮起して、

「その、どうでしたか。」

 と何とも月並みにこふ聞いた。
 彼女ははつと思い出したやふに私を見て、それから自分のしよふとしていた罪に気付いたらしく、一度俯いてからゆつくりと顔を上げ、

「その、続きはおありになるのでせうか。あの、とても気になつてしまつて何とか答えはなゐものかしらともう一度。お恥ずかしゐ。」

 つまりはそれが答えであつた。私は舞い上がつて立ち上がり、それから気絶したやふに倒れてみせて、更にむくりと起き上がると彼女の手から原稿を引つたくり、文机の一番上の引き出しから真つ白い原稿用紙を取り出して

「今書きます。」

 とすら言つてみせた。それからはあまり憶えていない。ふと気付くと私は俯せて眠つていて、原稿にべつたりと涎を垂らしていた。そして私は直感した。その考えはさながら天啓のやふに私を駆け巡つて飽くなかつた。つまりは、夢だつたのだ。全て幻だつたのだ。
 私はのつそりと原稿用紙から顔を上げ、その題を見た。「夢幻」とあつた。なんといふ皮肉だろうと私は幾度とも知れず天を憎んだ。
 それから着物の裾で涎を吸い取り、その夢幻とやらをぱらぱらと捲つてみた。驚いたことに、この夢幻は完結してゐた。その時には私はもう妙に嬉しくなり、すつくと立ち上がり、またその夢幻の原稿をぱらぱらと捲つた。草臥れた文字で、確かに終わりと書いてある。確かに私の字である。その時であつた。
 はらりと毛布が私の肩から落ちた。それはこの部屋にはあるはずのない毛布であつた。はて、誰が持つてきたのであろふ。今日は、いやもふ一年もこの家には誰もゐなひはずなのだ。それに、妙に良ひ香りがする。これは、私の大好きなみそ汁の匂いだ。しかもこの匂いには、余所の食卓の匂ひとは決して違ふ迫力とも言ふべき正直さがあつた。私は再び、まさかと思つて部屋を飛び出そうして、取り落とした夢幻の原稿用紙に足を滑らせ、無様にも転んで見せた。
 私は、はつと眼を醒ました。目の前には夢幻の原稿用紙があつた。無論、何処を探しても終わりの文字など皆目見当たらなかつた。ただ汚らしい涎と、奇妙にのたくつた黒い虫が原稿用紙を漂つてゐた。私はそれだけは奇妙に変はらぬ夢幻と言ふ題をしばし見詰め、その紙屑をびりびりに破いて部屋中に撒き散らした。
 しばらくして、私はのそのそと文机まで這つてゆき、真新しい原稿用紙を取り出してこの一本の短編を書ひた。面白いとも、つまらなひとも思わなかつた。私はそれに、やはり「夢幻」と名付けた。ともあれ、記念すべき一本になつたことには違いあるまひ。なぜなら、……いや、やめておこふ。後書くのは一言だけである。では諸君さよふなら、さよふなら。


 ―終わり―






あとがき

 まずはお読み頂き誠にありがとう御座います。
古い太宰治の全集を読んでいて古仮名の可愛らしさにすっかり惚れてしまい、もはや書かずにはいられませんでした。幸せでした。
ですが、慣れぬ&まともに勉強もせずに使ってみた古仮名では読み辛かった点も多々あったかと思います。申し訳御座いません。
 話の内容としましては、小説家志望の書生がちょっと意地の悪い夢を見るという夢を見てがっくりしたけれども、負けず小説のネタにしてみたという物です。
当方、初夢オチで御座います。初夢という奴ですね。違うかも知れません。
 セリフや描写などは読んでいた太宰治の影響を受けて&古仮名に合うように故意に変えてみました。
また他にも地の文に句点を打たずに「」を跨ぐような書き方や、感情や説明を注訳のように()の中に書くという正直好きではないものも、これも経験だと挑戦してみました。
十二枚ほどの短いお話しではありましたが、色々と実験的な小説になったかなと思います。
 では、繰り言のようで恐縮ではありますが最後にもう一度。
 ここまでお読み頂き誠にありがとう御座いました。次が何時になるかは分かりませんが、その時も何とぞ宜しく願えればと存じます。

 

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