第一話「男」

 



 光。刀の鍔で受け止め、弾くとその勢いのまま僅かに後ろへと下がった。男が姿勢を崩す。だが、飛び込むことは出来なかった。草鞋の紐が切れている。肩で息をしながら、私は後ろに放るようにして草鞋を脱いだ。肩を動かし、大きく息を吐いた。 
 男も同じように息を荒くしながらゆっくりと立ち上がる。草鞋を履き替える余裕はありそうにない。一度足を踏みしめ、手首を返し、剣の柄を握り直した。

 間はおよそ三歩。湿った土と草が足に馴染むのを待たずに、私はゆったりと正眼に構えた。男も構え相正眼の形となった。
 風に袴の裾がたなびく。誘われるように私の剣の先が揺れる。揺れただけだ。男はまるで無表情である。また、ゆらりと男の体が傾ぐ。しかし、じっと堪えた。潮合いはまだ遠い。
 腕力で負けてはいなかった。先の鍔迫り合いは私が振り回した格好だったのだ。気をつけるべきは、速さ。何も見えなかった。弾けたのは勘が当たったからだ。そう何度もある幸運ではない。しかし押し合いならば。その為にも、慌てぬ事だ。じっくりと、焦らず、押し潰す。
 日が、幾重にも重なって刃を照らしている。文月(七月)の昼下がりの熱さの中、木々に囲まれた郊外にされど蝉の声は何処にも響いていない。それと引き替えに、辺りには凛とした空気が張りつめている。額に浮いた汗が風に流れていく。林はまるで音という音を失ってしまったようだ。

 勝てるかどうか。自分に問う。勝とうと思えば、勝てるかもしれない。負けると思えば、必ず負ける。
 風に誘われるように剣先が乱れる。見えない糸に引かれるように腕が下がろうとする。一歩も動いていないのに、呼吸が治まらない。耐えろ。何度も言い聞かせた。男の体が、また揺らぐ。思わず体が飛び出そうとする。
 私の方から誘いはかけなかった。技術では奴が上だろう。じっと耐えることだ。そして、勝機を逃さぬ鋭さを保つことだ。
 風の匂いが鼻を突いた。日が沈んでいく中で、剣が金色にも似た鈍い光を放っている。それに霞み、まるで剣に潜む影のように奴が立っている。
 長い。言葉が脳裏を走り、視界が擦れたとき、奴の気配が変わった。隙が消えた。一本の剣が、赤くその身を歪めている。
 潮合。徐々に昂ぶっていく。肉を断つ刃の澄んだ音が、私の背に蘇ってきた。既に、籠めるべき気は残されていなかった。同じく、この身に打ってくる物も無い。始めからそんなものはなかった。奴は、初めからただ立っていた。
 空気が重い。剣も重い。毎日半日は振るっている剣だ。これしき、何だというのか。なのに、剣先を押さえつけられているように重い。
 同じ様な事は何度かあった。それでも、私は闘ってきた。父以外では、負けもしなかった。男も、同じように重いと、思い定めた。

 汗、風、刃、土。金色の光。風に踊る葉。こぼれ落ちた水滴のように、何かが弾けた。
 奴の踏み込み。遅れはしなかった。気合い。交差する。思ったとき突如、光が躍った。手が痺れ、手から重みが消えた。宙を舞う刀を私は幻のように見詰めた。

「おのれっ」

 恐怖に押されたように食い掛かる私は、結局叫んだだけだった。気づいた時、私は布団の中で汗にまみれていた。
 何処も斬られておらず、何処も刺されていない。
 首筋に、太い蚯蚓(ミミズ)のような青痣があった。返した刀の反りで、動脈を打たれたのだと直ぐに分かった。情けをかけられたのか。私は刃を反す程の余裕を奴にもたせたのか。屈辱だった。だが、あの剣の動きを思い出すと、それだけで手に汗が滲む。
 剣の筋。強靱な、一本の剣の筋。私の勝てる相手では無かった。ただそれだけが、はっきりと分かった。いかにも遅すぎる。負けた後なのだ。本来なら死んだ後である。
 拳を握る。弾かれた手首が、力を入れた事で激しく己を訴えた。
 それが、とにかく憎らしかった。


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